奈
落
の
床
「動くな」
しまったと思ったが既に遅かった。耳元で微かな空気が切れる音と冷淡な感情の読めない声。
忠告を聞き入れようにも条件反射で、思わず振り返ってしまい、鼻の先に鋭利なナイフが突きつけられる。
髪の毛一本分の隙間しか残さない明らかに実戦向きのそれを目の当たりにする度、彼とは住む世界が違うと痛感する。
それも、少しでも物音が立てば響き渡るこの地下駐車場で一切の足音も気配もさせなかったのだから。
「ジン…」
顔が引き攣るのを努めて抑えながら呟く。
大丈夫だ、殺すつもりなら自分の存在を示し、振り返る隙も与えずに後頭部から鉛玉を撃ち込まれているはずだ。
そう自分に言い聞かせ、気付かれたのも計算の内と言わんばかりの表情を作る。
「俺の周りをチョロチョロするのも出来るのも、お前ぐらいだからな」
何処で気付いた、と問う間も間も与えず言う。どうやら、ここに来るのは予想されていたようだ。
舌打ちをする代わりに悟られないよう、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
ジンが俺を逃がしたあの日、ゲームが始まった。
ゲームと言っても、こっちに勝ち目は、ほとんどない。
捕食者が獲物を逃がして、散々いたぶり楽しんだ後に喰うのと同じだ。
それでも、俺に拒否権はなかった、拒否も敗北もイコール死なのだから。
互いが相手の動向を窺えるように、ジンは米花を中心に活動するようになる。
あの目立つポルシェは良い目印だった、見かけれる度、慌てて追い掛けて少しでも情報が欲しいと奔走した。
偶然、俺を見かけたのか、驚いたのはベルモットだった。
ある日、得意の変装で小学校に現れ、音楽室で何がどうなっているのかと問いただされた。
ピアノの前で気まぐれに鍵盤を人差し指で弾きながら、自分の秘密がバレた事、自分が置かれている状況を話すと
彼女は納得したというアピールなのか一回深く頷いて、ピアノの前の椅子に足を組みながら、ゆったりと座った。
「けど、驚いたわ。あの男が、どんな形であれ貴方のような人間を生かしておくなんて。
随分と運が良いじゃない?…いえ、悪いというべきかしら?」
「状況が悪い事に変わりはない」
「それは言う通りね。残念ながら、この件に関して私はノータッチ。
組織の誰が、貴方の事を何処まで知っているかなんて分からない。
下手に探りを入れたら。私が関わった事も気付かれてしまうしね」
「……」
どうすればいいのか、動揺をそのままに俯く。
「まぁ、精々ジンを失望されない事ね」
ポロンと音がして顔を上げると、女の細く白い指が鍵盤を踊るように滑って行く。
穏やかだけれど、止まらない連続する音の波。聞いた事がある、クロード・ドビュッシーのアラベスクだ。
「貴方も大変ね、私とジン、両方の機嫌を取らなきゃいけないんだから」
睡眠を誘うような、うっとりとするような旋律。
「良い事を教えてあげるわ。今度の土曜日、ジンが単独で動く。
場所は米花グランドホテル、健闘を祈るわ」
この曲は何処か落ちる感じと似ているな、と考えていると、複数の不協和音が響いて途切れた。底に着いたように。
ベルモットは、ピアノの蓋をそっと閉め、マスクを外し、窓に足を掛ける。
もう、ここには用はないのだろう。
「これから、どう動くのか私だけの楽しみだったって言うのに…。
少し残念よ、シルバーブレット」
酷くつまらなさそうな顔をして、姿を消した。
そして、土曜日。
解毒剤の試作品を飲んで、一時的に元の身体を手に入れた。
ジンが単独で動くには恐らく殺しが絡んでいるだろうと踏んでの事だった。子供の姿ではあらゆる面で都合が悪い。
敷居の高い米花グランドホテルに馴染むよう、高いスーツを下ろし、髪を撫で付け身分を偽る。
ホテルマンに違和感を抱かせる事なく地下駐車場に入り込むと目当ての車を一台一台確認しながら探した。
高級外車が、その出で立ちを誇るように並んでいる端に、こじんまりとそれはあった。胸が高鳴る。
幾度となく、ここから奴らの情報を手に入れて来た。
事前に用意した手袋をして、簡単なピッキングで扉を開ける。
運転席を覗き込み、何か手掛かりはと心音が大きくなるのを感じながら身を乗り出した途端にジンが現れた。
「お前は俺が、この近辺で活動し始めてから今回を合わせて3回、車に侵入しているな」
ナイフの切っ先が妖しく輝くのが見える。
「少し、調子に乗り過ぎじゃねぇか?」
ナイフの反射で生まれた光が、すいと下に消えたと思った瞬間に額に拳銃の無慈悲な感触を感じる。
「俺にバレるような痕跡、今日に至っては完全に尻尾を掴まれ、この有様」
カツンっと駐車場にジンの足音が響いて、彼が距離を詰めたのだと気付く。
ぐりぐりと拳銃を押し付けられ頭蓋に響いた。
「…緊張感が足りないようだな」
拳銃を引っ込めた代わりに右手が伸びてくる。口を指の長い大きな掌で押さえ込まれ背中が撓った。
肩甲骨が車の屋根に当たって痛い。両手で引き剥がそうと腕を掴むが、びくともしない。
酸欠でクラクラし始めた頃、ギルルとタイヤが方向転換する音と、こちらに向かってくるエンジン音。
ここが、ただの地下駐車場と失念していた。第三者に現場を見られるのは、避けたい。
それはジンも同様で、大げさに舌打ちをしたかと思えば口を塞いでいた手を放し、
俺が大口を開けて酸素を吸い込んでいる隙に髪を鷲掴み、そのまま地面へ引き摺り倒した。
「が…っ!」
すぐに体勢を立て直そうとするが、しゃがみ込んだジンに後ろから腰を抱き込まれ、また膝が崩れる。
そうこうしているうちに、車はポルシェの前を通り過ぎていった。俺達の姿は車の扉で隠れて見えなかっただろう。
また駐車場に沈黙が落ちる。
「……」
「お、おい、放せ」
「黙ってろ」
背中にジンの体温を感じる。
今まで俺が見て来た彼は、あまりに冷徹で残酷で、おおよそ人間的な部分が欠如していた。
だからか勝手なイメージで、サイボーグとかそういう温かさからは程遠い存在だと思い込んでいた。
コートから密着する事により伝わる熱は当然生きている人間のもので、けれど何故か俺を動揺させる。
そうして混乱しているうちにジンは器用に俺のズボンに手をかけベルトを外し、前を開く。
「何してんだ…っ」
「黙ってろと言っている」
黙っていられる状態じゃない。今ある状況に脳みそが着いて行かない。
死と得体の知れない何かから逃れる為、弱々しい抵抗しか満足に出来なかった。
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ベルモット姐さんも大好き。
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